代表者紹介

萱場 玄 Gen Kayaba
初めまして。日本の公認会計士の萱場 玄(かやば げん)と申します。
生い立ちから現在まで、まずは自己紹介をさせていただきたいと思います。
長くなりますが何卒お付き合いください。
少年時代

1978年、福岡県に生まれた私は、いわゆる転勤族だった父の仕事の関係で、福岡、東京、名古屋、大阪と、日本の4大都市を転々とし、よそからきた転校生という経験を何度もして少年時代を過ごしました。

劣等生への転落

東京、名古屋、大阪で過ごした少年時代は野球、サッカー、テニス、⽔泳などをこなすスポーツ少年、小学校卒業までは成績も良いそこそこの優等生でしたが、中学2年生頃から「なんのために勉強するんだ?」という疑念を持ち始め、深い深い暗黒の思春期に入り込みました。

成績はガタ落ち、高校では毎日早退して遊びに出かける日々を過ごし、大学受験は10校受けて全滅し留年、予備校に所属するものの、予備校に顔を出したのは1年間でたった3日。1ミリも学力向上せずに1年後に再び10校を受験した結果、「国語1教科入試」という特別な試験でかろうじて拾ってもらった大学に進学したというのが私の学歴です。

パチプロ生活

そんなラッキーパンチで入学した大学で生活はさらに悪化、20校の⼤学受験料と1年間の予備校の授業料に加え、大学の学費までも両親に支払わせたバカ息子は、毎日パチンコパチスロに明け暮れ、1年のうち360日パチンコ屋に通う生活を続けました。

「あいつらなんでバイトなんてしてるんだ?こっちの方が絶対儲かるのに。」

と思いながらバイトに明け暮れる同級生達を横目に、いわゆるパチ(スロ)プロ状態で学生時代の数年間を過ごしました(当時はテクニックがあれば儲かるといういわゆる技術介入機の全盛期で、地道な研究の成果もあって実際にかなり儲かりました)。

公認会計士を目指す

一大決心

人との交流もなく親友と呼べる友人もいない、そんな暗い学⽣時代を突き進んでいたところ、ある⽇ふと思いました。場所は大阪府和泉市の片田舎、大学2回生の時でした。

「俺、このまま人生終わるのか?このまま卒業したら三流の会社に入社して、しがないサラリーマンで一生過ごすぞ?いいのか俺?」

未来を切り開くための一大決心でしたが、厚さ5cmほどもある「資格一覧」を大阪梅田にある紀伊国屋で購入し、簿記3級を受けてから会計士試験に挑むという意思決定をするまでにそれほど時間はかかりませんでした。

公認会計士試験

人生初の勉強三昧の日々、朝6時前に起きて7時前に大阪の西中島にある大原簿記専門学校本校へ着き勉強開始、それから夜21時までぶっ続けで毎日14時間、去年までパチンコに費やしていた360日をそのまま勉強時間に移行しました。毎日5時に起きて欠かさず朝食を作ってくれた母には感謝し尽くしても足りません。

その結果、大学卒業直後に公認会計士試験に合格、晴れて大手監査法人の一つ、当時の新日本監査法人に入所することができました。入所してすぐ、当時所属していた新日本監査法人の海外(KPMG)部門が独立し、あずさ監査法人を設立、あずさ監査法人の一番初期の職員となったのが2003年の頃です。

日本での勤務時代

監査法人

一言で簡単にいうと監査法人の業務は「クライアントが作成した決算書が正しいかどうかチェックして報酬を頂戴すること」ですので、当然ながらクライアントよりも広範で専門的な会計知識が問われる専門職です。しかし一般的な話、(クライアントに対しては失礼極まりない話なのですが)多くの新人にとっては、そもそも初めての社会人経験ですので、名刺交換の方法すら知らない「普通の新卒社会人」と何ら変わらない状態で「先生」としての業務がスタートします(実際に監査法人対応をされている方はよく御存知かと思います)。

その後の苦労はどこか別の機会に譲ることにしますが、監査法人勤務時代は主に製造業クライアントの会計監査に携わり、最終的には外資系クライアントや上場会社の現場責任者も担当させていただきました。

英語の勉強を始める

仕事はハードなものでしたが、なんの因果か海外への強い想いを抱き始め英語の勉強を始めました。なんせ大学受験を国語だけでパスした私ですから、知っている英単語は100個もありません。英語学習は会計士試験よりも過酷(いまだに苦手)なものといっても過言ではありませんでした。

しかしどうやら努力する才能はあるようで、その6年前にパチンコ屋、4年前に大原簿記で費やしていた年間5,000時間を今度は(仕事と)英語に費やし始めました。「中学校の英文法総復習テキスト」を手に取ったところから始まり、夜中や早朝、事務所に戻った後の残業時間などで合間を見つけてはテレビ電話や通学を併用して毎日英会話に励みました。その後監査法⼈を退社しニューヨーク留学を経て、金融や国際税務に強く海外案件も多く扱う東京共同会計事務所に入所、海外案件担当を直訴し積極的に英語ビジネスの環境に身を置くように心掛けました。

東京共同会計事務所にて、多くのノウハウを得る

⾦金融系の業務を数多く抱える東京共同会計事務所では、SPC決算、SPC監査、デューデリジェンス、各種評価、 ストラクチャードファイナンス、国際税務、IFRS、その他会計税務コンサルなど、幅広く、かつ専門的でニッチな⾦融領域も含めて数々の案件に携わりました。学んだノウハウは数え切れず、今の私のビジネス会計人としての大きな基礎を築かせていただいたのは間違いありません。

しかし監査法人同様、この業界の仕事は楽なものではなく、「いつかは海外に」という思いを持ち続けていたものの、思いを⾏動に移すにはあまりに時間が足りませんでした。しかし数年経ったある日、東京丸の内の金融街でまた私は自問自答しました。

シンガポールへ

アジアに⾏くことを決める

「もう30歳もとっくに過ぎたけどこのまま日本に居ていいのか?歳を取ると海外なんて行けないぞ?日本の将来を考えると子供や孫の世代は日本で食っていけるのか?海外案件もほとんどシンガポールと香港の案件だし、一刻も早く海外、特にアジアに行くべきなんじゃないか俺?」

思い立つとすぐ行動に出てしまう癖のある私はすぐに海外の現地事務所へ直接コンタクトをして求人状況を問い合わせたり、新興国の住環境調査のため現地視察に訪れたりと、移住先の選定と同時に、生きていくための糧である仕事を探し始めました。

そしてシンガポールへ

最終的に一本に絞った移住希望地はシンガポール。シンガポールに行きたい!ということでチャンスを探していたところ、運良く友人から個⼈的な紹介を受けてTMFというオランダの会計事務所への参画を決意したのが2012年初頭です。

TMFでは、良い意味で非常に多くのカルチャーギャップに驚きました。初めての海外勤務(しかも東南アジア!)、初めての外資系企業での勤務に言葉、文化の違いに商習慣の違い。。。考え方が合い寄れない相手とのやりとりでは、その合い寄れない原因を分析するのに四苦八苦することも多くありました。日本人だけで構成されている日本での会社勤務では感じることのなかったグローバル企業ならではの体験ともいえますが、おそらくこの感覚は私だけでなく、日系企業から外資系企業に転職したほぼ全ての日本人に共通する感覚だと思います。TMFシンガポールでは、大幅な裁量、権限を与えていただき、およそ普通の公認会計士とはかけ離れた行動をとらせていただき、人間としてもビジネス会計人としても大きく成長させていただきました。

独立した経緯・想い

東南アジアのサービスレベル

ここシンガポールは東南アジアでは突出して良いビジネス環境といわれるものの、(国が整備するビジネスインフラは非常に素晴らしいですが)会計系事務所も含めて実は個々のサービスレベルはそれほど高いわけではありません。実際に今まで多くの⽇本⼈の⽅々から取引業者に対する数多くの御意見をお聞きしてきましたが、文化や言語、商習慣の違いにより、不平不満がありながら「東南アジアだからまあこういうもんじゃない?仕方ないね。」ということで諦めている方も多いといえます。

日本、シンガポール経済の発展、そして自己実現のために

しかしながら、日本人の皆様が抱える多くの不満は、日本では当然と思われるような品質を保った業者であれば実は解消されることばかりなのです。弊社では、現地での法人設立や会計税務等の事務代行はもちろんのこと、クライアントがシンガポールで事業展開するにあたり必要となる様々なサポートを「高品質かつ適正価格」にて提供し、日系企業の事業展開を支援するとともにシンガポールにおけるサービス業界の品質底上げを図り、ひいては日本及びシンガポールの両国経済に貢献することを目的として事業を推進して参ります。また、これからは自分の信じる、人として、ビジネスパーソンとしてのポリシーに従い、人を、信頼関係を大切にし、雇われ会計士では実現できなかった様々な面白い試みを自らの意思決定一つで可能にできるという環境をお客様と一緒に楽しみたいと思います。従来の会計事務所の枠には収まらないと思いますが、会計事務所としての品質の根幹は崩さず、お客様とここ東南アジアを楽しみ、そして共存共栄していければ最高だと思います。